003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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婦人連合会の活動如何」(『横貿』一九二九年五月二十四日、徳が再び「婦人活動の認識二十五日、二十六日)で辛口の意見を述べたのに対し時田田鶴が「連合婦人会の社会活動海野幸徳先生に答う」(『横貿』六月十一日、十二日)を寄稿している。海野が横浜の婦人は政治的運動を試みていないと指摘したのに対し、一九二八年総選挙のとき東京連合婦人会の発議で大運動があり、「我々横浜婦人会員も之に参加して大に理想的代議士当選の為活動した事未だ御存じないのか」と反論。会館を社会運動のセンターとしてあらゆる社会事業に携わるようにという助言についても答えている。家庭部は女中会を開いてガスや水道の使い方などの講習会を開き、教育部は児童教育や成人教育に関する講習会を催して一般女性の啓発をしている。ただ「花見観劇の為ならば、一日家を空ける婦人も少なくはないが、此種の真面目なる会合に出席して、教養を受くる事を希望する婦人は未だ多数ではないらしい」と実情を打ち明けている。第3期大日本連合婦人会と並立して活動大正デモクラシーと言われた一九二〇年代は、社会主義運動や労働運動、小作争議、女性参政権運動など反体制運動が高揚した。政府は「思想国難」を理由に家庭教育の振興を掲げ、教化団体として一九三一年三月六日、皇后の誕生日を期して大日本連合婦人会(連婦)を組織した。文部省の官製団体で、全国市町村の婦人団体六千余を傘下に、二七年創立の大日本連合女子青年団と連携しながら精神教化運動で引き締めをはかった。137「横浜連合婦人会館史」解説


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