003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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もの一万三四千円各委員手元残高及び大口寄付金五六千円の見込みであるから総計額三万円に達する予定である」(『横貿』一九二四年十二月十八日)とあって、すでに活動を停止している横浜婦人慈善会から一万円の寄付があったことがわかる。しかし土地の取得が難事だった。三宅千代が先の著書で明かしている。会長の渡辺たまが県や市にたびたび足を運んで訴えたが、思うようにならず、渡辺が「知事さんや市長さんは、渡り鳥と同じであてにならないことを知った」と言い、渡辺の次男利二郎から宮崎町の土地を譲ってもらい、三宅ら数人が手形の裏書きをして責任を持つことにしたという。第2期横浜連合婦人会館の落成を祝う横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる134婦人の誇り」「横浜連合婦人会館念願の会館が完成したのは、一九二七年五月七日。翌八日の『横貿』は、「横浜のみがきのう目出度く開館の喜び」の二本見出しで、持つ次のように報じている。「六大都市の市で我わが横浜のみが先ず持つことが出来る様になった横浜連合婦人会館の開館式は七日午後二時から一階大講堂に於て水崎夫人の司式の下に挙行せられた。瀟洒な落着のある大講堂は全市各方面を代表する男女来賓を以て満たされ連合三十有余団体を代表する会員婦人達其間に斡旋して場内は極めて秩序能よく整理せられてあった。式は上郎夫人の挨拶、野村夫人が会館建設の経過及び其今後に於ける抱負を述べた。


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