003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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なお、一九二八年十二月には財団法人横浜連合婦人会と改称し、五章三十四条に及ぶ規約と附則を決めて、組織を固めている。役員の任期や経理の透明性をはかることは、組織を持続していくためには必須で、商家の妻として、あるいは職業人として采配をふるってきた理事らの知恵だろう。一軒ずつ訪ねて十銭募金連合婦人会は震災九か月後の一九二四年六月、婦人会館建設計画を立て、一口十銭の募金活動を開始した。評議員の三宅千代が晩年にその苦労を回想している。「全市の方々に使って頂くようにと計画を立て」、各区二人ずつで集金することになり、神奈川区は三宅と吉川とゑが組んだ。「二人で一冊ずつ募金帳をもって、毎日毎日歩きました。土地の代金と会館の建築費を生みだすことだけを考え、たそがれ時まで一生懸命でございました。一口十銭とは申しましても、一軒一軒うかがってお願いすることの大変なことを知り、よい勉強をいたしました。『ご苦労さま』という言葉を頂くことは、大変な喜びでしたが、押し売りか物ごいのあしらいを受けることが多く、目がしらがあつくなることもありました」(『思い出は真珠の如く』一九七五年)。こうして半年後の十二月には早くも三万円以上が集まった。「建築費募金の運動は横浜復興会に事務所を設けて以来全市に亘って一口十銭主義で殆ど戸別訪問的に熱烈な運動を試みた結果」、「横浜婦人慈善会より寄付せられた一万円及び小口の募金は現在銀行預金の133「横浜連合婦人会館史」解説


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