003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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その際目覚ましい働きをしたのは四〇年前からキリスト者として、貧しい人たちの支援をしてきた稲垣寿恵子。時田田鶴が書いている。「あの幾千と云う貧民の住所姓名を一々明記して、之に支給した物品も一個として洩す処なく、明瞭に記録して掛りの者へ渡されたのを見て、如何なる些細の事にても、決して忽せにせられないのを示されたのである。之を以て之を見るも、先生の手を触れられた処、必ず歴然たる形を成して永久に跡を止むるものがあるのである」(森和平編『露香と呼ばれる年齢の六十四歳であった。稲垣寿恵子小伝』)。このとき、稲垣は「刀自」救援と復興活動を続けながら一九二三年十一月二十五日、教会、女教員会、各女学校など関係団体も加わって誕生したのが横浜連合婦人会で、加盟団体は二十有余、三十有余と両説あるが、本冊子に記載してあるのは二十三団体である。会の目的として復興事業にとどまらず、家庭改善の問題、婦人の知的精神的向上、社会福祉の増進、婦人に関する産業奨励など方向性を示し、家庭部、社会部、職業部、教育部に分けている。年表でみると種々の講演会、音楽会などを開いているほか、会員と関係の深い済生会病院の後援や生活困窮者への援助も続けている。これについて龍谷大学教授の海野幸徳が「婦人会館の意義及び運用」と題して二回にわたり論評(『横貿』一九二四年八月三十一日、九月一日)。横浜連合婦人会は「家庭改善」というがどれだけの識見を持っているのか、婦人が集まって「婦人通有としての蝸牛角上の争いや嫉妬排斥に終る如きは今より厳にいましめなければならない」などと、女性の集まりに対する偏見が感じられる。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる132


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