003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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一九三六年、横浜市連合婦人会が大日本連合婦人会の傘下に入り、四二年、大日本連合婦人会が大日本婦人会に統合され、横浜市連合婦人会が解散するまで。第1期救援活動から生まれた横浜連合婦人会一九二三年九月一日、関東地方を襲ったマグニチュード7の関東大地震による被害は、東京より震源地に近い横浜のほうが甚大で、関内地区をはじめとする横浜市の中心部は壊滅的な被害を受けた。本冊の時田田鶴「今昔」によると横浜連合婦人会は、内外諸国から横浜市に寄贈された慰問品の分配作業を、県市当局から依頼され、既成の婦人団体と学校教員らが協力して事にあたったことから成立したという。核になったのはこのときまで存続していた家庭製作品奨励会である。事務所はとりあえず中区太田町の横浜基督教女子青年会においたことから、焼跡の天幕の中から誕生したとされる。一九二五年九月には中区本町一丁目の横浜市復興会館内に移した。最初に手をつけたのが被災者救援で、全市を十区に分け罹災市民の調査をして報告カードを作成。それに基づいて、寄贈品の分配、失業した女性には職業紹介や斡旋、母乳不足の乳児に練乳を配給するなど、こまやかな救援をしている。翌年には小学校に給食を実施したり、清潔週間の実行運動をするなど、着実に活動を進めている。その手際の良さは、これまでの活動で得たノウハウを生かしたものだろう。131「横浜連合婦人会館史」解説


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