003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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りしない。「横浜連合婦人会回顧録」の牧内志げによると、「この会は、機会ある毎に家庭婦人の方々に有益な講習会を開催したり、又年中行事として春秋二回、横浜開港記念会館でバザーを開いて、製作品や不要品を持ちより廉売して会の運転資金を作って活動し」、バザーを催すときはいつも余興係として踊りなどを披露したと、楽しそうに回想している。開港記念会館で行われたバザーと余興について『婦人週報』(一九一七年十一月三日)にルポがある。十月二十三日、開港記念会館は「浅草の仲見世が一ひとところ処にぶちあけられた様に赤や黄や、子供の足を止むる玩具の色々から、廃物利用の実用品、さては焼絵の羽子板こ血児の女学生、長から三足一円のスリッパー、横浜市産婆組合のお産道具」などを、「混あい靴下を出した金髪乙女の売子」が愛嬌よく売り、余興場では活人画、薩摩琵琶、中村氏一家の仕舞などが行われていると描写している。いの「幹部」として記者のインタビューに応えているのは高木鐸で、自ら考案したという足袋干しを見せながら、入場券は一万五千部刷って、全部無くなったと上機嫌。そう言えば、野村は家庭製作品奨励会と重なる旗の日会は「高木鐸子とミセス・メンデルソンの主唱」だとも書いている。東京の駿台英和女学校出身の高木は、本町一丁目で高級レースを扱う「ミセス・タカギの店」を開いており、御大典の祝宴で皇后が手に持っている扇は高木商店謹製の精緻なレース製。しかし、この頃には高木は店を閉じて、生活合理化運動に軸足を移している。大正中期、女学校や社会教育の場で生活改善が叫ばれるようになった。第一次大戦後横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる128


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