003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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員を配置して、それぞれが受け持ち地区で活動した。出征兵士の送迎、傷病兵の慰問のほかに、寄付金や慰問品を集め、授産部を設けて陸軍の被服を縫う仕事を出征兵士の家族に斡旋したり、保育所も併設している。これらの活動は愛国婦人会と重なるが、奨兵義会婦人部は中間層の主婦も取り込んで、地域に密着したより細やかな動きをしている。地元紙『横浜貿易新報』(以後『横貿』)は、奨兵義会婦人部が愛国婦人会や矯風会の「婦人連も集めて一団と成し」「之が為め横浜市に於ては奨兵義会婦人部以外に婦人社会の活動を見ざるに至りしなり」と称賛している(一九〇四年十一月四日)。ユニークなのは戦地の兵隊に送った「勝か男武士田麩」。兵士が一方の手に銃を持ちながら食べられるよう工夫したもので、野毛町の渡辺邸に集まって、鰹節を削るところから始め、袋に詰めて送り喜ばれたという。つぶしおでんぶ『横貿』には、各地区委員五十五人のインタビュー記事が連日掲載されている。のち横浜連合婦人会の幹部になる上郎やす、田沼なる子、佐伯八重、栗原いと、北島ふさ子ら豪商の妻たちとともに、稲垣寿恵子、二宮わか、平田もとらキリスト教女性たちの名前もあり、渡辺たまのもとに、横浜市内の有力女性たちが立場を超えて結集したことがわかる。小国旗を作って即位を祝う野村美智は本冊の「横浜家庭製作品奨励会」と「渡辺玉子刀自景仰録」の両方で、家庭125「横浜連合婦人会館史」解説


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