003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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た。二一年には婦人宿舎も開設、創立者の一人が野村美智で、同会の理事として長く奉仕した。実業家の妻たちも家庭から外へキリスト教系以外の女性運動は、国家の要請で軍事援護活動から始まった。明治になって初めての対外戦争である日清戦争(一八九四~九五年)が始まると、豪商の大谷嘉兵衛が呼びかけて横浜恤兵会を組織し、姉妹会として横浜婦人恤兵会もできた。大谷の妻栄子や原善三郎の妻幸子らが中心で、義援金を集めて出征兵士に贈ったり、兵士の家族の慰問に当てた。これより前の一八八七年には日本赤十字社篤志看護婦人会ができており、戦時傷痍軍人の救護が目的で、上流女性が陸軍病院で繃帯巻きなどの奉仕をした。一九〇一年には陸海軍省、内務省をバックに全国組織の愛国婦人会ができ、日露戦争が始まると出征兵士の送迎や慰問袋を作成するなどして、女性の愛国心を鼓舞した。神奈川県にも支部ができ、支部長は周布貞子、幹事に渡辺たまら上流女性が名を連ねている。篤志看護婦人会と愛国婦人会の会員はほとんど重なり、どちらも皇族女性を総裁に戴く官製の婦人団体である。日露戦争中(一九〇四~〇五年)には、横浜独自の軍事援護組織である奨兵義会婦人部もできた。日清戦争のときの婦人恤兵会より組織を拡大し、最も多いときには二万人以上の会員を擁している。委員長は渡辺たまで、市内を五区に分け、各区に四十人ずつの委横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる124


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