003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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外壁が赤く塗られていたので、「根岸の丘の赤病院」と呼ばれて頼りにされた慈善会病院は、寄付やバザーで集めた資金で運営していたが、しだいに資金繰りが苦しくなった。そこで、一九〇〇(明治三三)年、組織を社団法人に改め、翌年には周布公平知事の妻貞子を会長に、渡辺たまや田沼なる子ら横浜財界の妻たちが理事に就任して資金を投入し経営基盤を安定させた。外来患者は一日、四十人から五十人、入院患者も常に十四、五人いたという。国がようやく低所得者のための救療事業に乗り出したのは一九一一年。宮廷費百五十万円をもとに、全国に半官半民の済生会を設置して済生会病院を開院した。横浜婦人慈善会ではこれを機に病院を寄付することにし、土地建物を始め、医療器具一切、有価証券を含め神奈川県済生会に寄付し、一九一三(大正二)年、二十年余の病院の歴史を閉じた。クリスチャン女性と財界の女性たちが協同した初めての事業で、病院は手放したが、横浜婦人慈善会は関東大震災前まで活動を継続している。なお、クリスチャン女性たちは、全国組織の日本基督教婦人矯風会の横浜支部として、主に女中や事務員などの職業紹介、身の上相談、宿泊所など困っている女性たちの駆け込み寺のような活動もしている。中心は二宮わかで、長期にわたり矯風会の運動を引っ張った。一九一三年には横浜倶楽部が発足。まもなく横浜基督教女子青年会(横浜YWCA)となり、就労で海外に渡る女性たちのために現地の生活習慣などを、職業婦人を対象に英語、タイプ、ピアノ、料理、速記などを教える現在のカルチャーセンターのような教室を設け123「横浜連合婦人会館史」解説


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