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キリスト教信者の女性たちが作った病院キリスト教伝道の中心地になった横浜には、明治の初めから多くの宣教師が訪れた。女性宣教師も多く、彼女たちは教会を牧することができないので、教育や医療を通じて伝道に取り組んだ。現在の横浜共立学園やフェリス女学院などは女性宣教師たちが創立した学校で、そこで学んだ女性たちも宣教師の影響を受けて伝道や社会事業に携わるようになった。その最も大がかりな事業が横浜婦人慈善会病院の建設と運営だった。開港で急速に発展した横浜には、他の地域から多くの人が流入し、巨万の富を積む商人がいる一方、一家総出で働いてもその日の暮らしに困る人びとが狭い地域に密集していた。不就学の子どもも多く、ペストやコレラなどの感染症の流行に苦しんでいた。富国強兵政策で突き進む政府には、困っている人びとを助ける余裕がなかったのだ。一八八八(明治二一)年、宣教師のヴァンペテンと伝道師の稲垣寿恵子、共立女学校出身の二宮わからメソジスト・エピスコパル教会(美以教会)のメンバーが、生活困窮者の密集地域を視察してあまりの貧しさに驚き、翌年、横浜婦人慈善会を組織し、施米所を設けたり、就労の斡旋などを始めた。それだけでなく、広く会員を募り、募金を集め、渡辺福三郎寄付の伝染病収容所とともに根岸西竹之丸(現、中区)に横浜婦人慈善会病院を設立したのは九二年。貧しい人たちを無料で診察、治療した。無給で治療にあたった医師の中には、共立女学校出身でアメリカの医学校に学んで医師免許をとった菱川やす、須藤かく、阿部はなら女性医師がいた。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる122