003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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市川房枝、平塚らいてうらが一九二〇年に創立した新婦人協会も、女性が政治参加を求める運動拠点としての婦人会館を建設したいという構想を持っていたが実現しなかった。一九三七(昭和一二)年には実業家の佐藤慶太郎が神田駿河台に女子の生活訓練所として佐藤新興生活館(現、山の上ホテル)を建てている。戦時中だったので、満洲に移民する「花嫁」たちの訓練所に使われた。横浜連合婦人会館は、これらの施設と異なり、民間女性団体の集まりである横浜連合婦人会が広く寄付を募って、開かれた場としての施設を実現したもので、きわめて珍しい例といえる。横浜市中区(現、西区)宮崎町にできた会館は、木造モルタル二階建てで、天井の模様が美しく、手摺りなどの装飾も凝っていたという。では、この会館はどのような経緯でできたのだろうか。歴史を遡ってみる。「横浜連合婦人会館史」二冊の構成旧婦人会館の建物はすでにないが、横浜連合婦人会が会館を建設した経緯や活動内容を記した「横浜連合婦人会館史」が男女共同参画センター横浜南に所蔵されていることがわかり、今回刊行したのが本冊子である。原本は本冊と別冊の二冊から成り、どちらも原稿用紙に手書きしたものを綴じて、茶色の表紙で簡易製本してある。本冊はB4判四〇〇字詰原稿用紙に縦書きで一三〇枚、背横浜市婦人会館」とある。別冊は、B5判二九七字詰(二七字×表紙には「婦人会館史横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる118


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