003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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一一行)の「大横浜原稿用紙」と印刷してあるオリジナル原稿用紙四一枚に記載。連合婦人会役員の野村美智が二冊にまとめたのは、太平洋戦争が苛烈になってきた一九四三年一月。物資不足から異なる原稿用紙への記述になったのだろう。後世に記録を残しておこうという執念が伝わってくる。【本冊の構成】⑧⑦⑥⑤④③②①一九一三年創設の家庭製作品奨励会の由来と物故役員の氏名などで、横浜連合婦人会の前史になる。一九四三年一月に野村美智が執筆。一九二三年十一月に横浜連合婦人会創立後、二八年十二月に財団法人横浜連合婦人会と改称、三六年八月に横浜市に移管して横浜市連合婦人会になるまでの歴史。横浜連合婦人会館の創立経緯、名称、所在地、会館建築費収支、会館要項など。財団法人横浜連合婦人会規約と加盟団体及役員名。一九二七年五月七日、横浜連合婦人会館落成式における原富太郎の式辞。横浜連合婦人会年表(一九二三年十月~一九三六年六月)。インターナショナル・ウィメンズクラブと横浜連合婦人会との交流、歴代会長。一九四二年、横浜市連合婦人会が解散して大日本連合婦人会に統合される際に牧内志げら七人が執筆した横浜連合婦人会回顧録。四二年十一月~十二月に執筆。一九三五年六月、横浜連合婦人会が解散して横浜市連合婦人会になることが決まった折に役員十人が執筆した渡辺玉子刀自景仰録。時系列では⑦の前に来る内容だが、渡辺が在世中で公表を拒んだことから非公表になっていたもの。119「横浜連合婦人会館史」解説


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