001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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てその事業に参加されましたが、事志に伴わずして蹉跌を招き、やむなく横浜花咲町に移り、炭屋を営みつつ孤児の世話を続けられました。ところが不幸にして夫妻共に肺患に斃れ、後は角倉嵯峨氏が面倒を見ておられました。その時夫人が大いにこの事業を賛成せられ、快く出資なされましたので久保山に横浜孤児院の確固たる成立を見ることになり、夫人自ら院長として経営の衝に当られ、ついに今日の如き堅固な基礎を定むるに至りました。その後夫人は託児事業を目的とする横浜保育院を設立され、これまた院長にご就任になり、今日に及んでおります。往年横浜港において茶の輸出が行われており、婦女子向きの仕事があり、それによって潤わされている人々も少なくありませんでしたが、輸出が静岡に移りましてから職を失った人が数多く出来ました。夫人はこれらの事情にいたく同情を持ち、なお将来青年子女が職業の第一線に立つ日のあることを予想され、会員組織をもって横浜女子商業補習学校なるものを起こし、小学校卒業の女子を入学せしめられました。のち会員の数が減少し、ほとんど夫人の独力で維持されることとなりましたが、益々初一念の貫徹に御邁進になり、ことに震災後は全く単独で経営の局に当られ、日の出町から山手に移りましてより一層盛大な横浜女子商業学校を見ることとなりました。曩のう日じつ、根岸に俗に赤病院と申した慈善病院がありました。元来メソジスト財団が経営しておったのでございましたが、事業の拡大に伴って経営困難を来たし、ついに事業はミッションの手を離れ、県知事夫人、渡辺夫人等のご尽力によって持続せられ相当の成績を挙げておりましたが、済生会が出来ました時、基本金中の一万円を除き約79渡辺玉子刀自景仰録


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