001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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ぬと言うことを痛感したのであります。第一の仕事として全国各地から集まった慰問品の配給でありました。また全市焦土となった中に珍しくも残っていた横浜駅前の社会館(今の振興倶楽部)がありました。そこで露天で慰問品を区分し、それぞれ届け先に指定して「これは孤児院」「これはどこの避難民の小屋」というように三、四日もかかってやりました。だんだん秩序が整頓していつであったか渡辺玉子夫人が中心となって野村美智子夫人、二宮わか子先生、時田田鶴子夫人など活躍され、会が組織されたのであります。すでに震災直後ずいぶん市内の役に立たれたことと思います。それから益々社会的に相当のお仕事を次々されたので、前途更に活動するには会館の必要を感じました。これが平素であれば、そんなに会館の必要を感じなかったかも知れませんが、何しろ焦土となった後でありますから各団体が会館の必要を痛感したのであります。それから我々婦人会員は方面を分けて寄付募集に努力しました。一口十銭という小さな金額で多数の人から集めるという方法で、色々な方面に募金致したことを覚えております。また市内の有志からも相当集めまして宮崎町紅葉坂の中辺にコンクリート二階建の建築が出来たのです。集まった寄付金は建築費の三分の一位であったと思います。会長渡辺玉子夫人は、ご自分が沢山のご寄付を出されたのみならず、なお抵当なくして渡辺銀行から借りたのです。その借金を返済するのがまた事業となって、会員は「精神一到何事か成らざらん」という意気込みであったのです。毎年会館でバザーを二回開いたり、古着交換会とか音楽舞踊会など色々な方面に活躍し、幹部の方々の奮闘努力は実に驚くほ横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる74


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