001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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た楽しみでもありました。資金が充分あってやる仕事と異り、また無論経験も自信もなくて、しかも大入り満員の時はただもう嬉しくて、この次は何をやろうかと日頃から楽しみに考えるのでございました。ある年のこと横浜名門のお嬢様方十何名に私の宅にいらっしゃって頂き、家庭踊りの練習をして記念会館で踊って頂きました時の人気は全く素晴らしいものでございました。大震災で大横浜が焼野原に変りましてから、私達の仕事はちょっと中絶の止むないことになりましたが、再び横浜連合婦人会の名で更生しまして、会員もずっと増加し、従前のように色々の講習会や不用品交換会を催しまして、市の復興と共に会の復興が伸びていきました。益田様と御一緒に会場や品物の整理などをお手伝いしましたことも今は楽しい思い出でございます。これも皆様のお蔭と存じまして、誠に有難く感謝の念を新たに致した次第でございます。(昭和一七.一一.二〇日)今昔時田田鶴大正十二年の関東大震災によって焦土と化した。わが横浜市に内外諸国の同情者より寄贈された慰問品の分配作業に手不足のため、県市当局の依頼を受けて、当時の既成婦人団体家庭製作品奨励会、横浜基督教女子青年会、日本基督教婦人矯風会横浜支部等の婦人連が蹴起して、仏教婦人会、産婆会、小学校並に女子高専の諸学校教員等と協力して事に当ったのがそもそもの縁となって本会の成立となり、続いて各種の社63横浜連合婦人会回顧録


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