001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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が米国婦人一致外国伝道協会から派遣され、アメリカン・ミッションホーム(共立学園の前身)を開きます。1873年にはキリスト教が解禁され、医療、社会事業、教育活動を通じた布教活動が活発化します。その中で、女性宣教師らによる、女子教育への取り組みも活発化していきます。いわゆるミッション・スクールの誕生です。1880年に来浜したハリエット・ブリテンの始めた女学校は横浜英和女学校となり、シャーロッテ・ブラウンが1887年に創立した学校はのちに捜真女学校となりました。これらの背景には当時、アメリカで女性の宣教師による海外伝道熱が高まっていたことがあります。全米で男女平等の参政権が認められたのは、1920年です。参政権が認められないなか、女性たちはキリスト教の権威と信仰を後ろ盾とすることで、「道徳の守護者」の名のもとにのみ社会的権威や発言力を得ていきます。宣教への熱意は、政治や経済から疎外されていた女性を動かし、1861年、女性による超教派の海外伝道会(米国婦人一致外国伝道協会)がニューヨークで組織され、女性による女性のための伝道が始まりました。各教派も婦人伝道局を立ち上げ、女性宣教師の派遣を開始します。女性宣教師たちの多くは母国で教職についており、来日した彼女たちは、日本での女子教育に力を注ぎました。彼女たちは欧米の新しい人間観や、社会観を日本の若い女性たちに培い、また、「施し(giving)」の精神を養い、余暇には出来る限り慈善活動に励むべきと教えたのも女性宣教師たちでした。小林由希絵(男女共同参画センター横浜南職員)61コラムキリスト教と女子教育


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