001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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尼僧は当時の婦人社会事業の大切なる従業員でありますから、これが救療保護の道をお立てになりましたことはあたかも今日の社会事業従業員の優遇が問題となっておると同様のお考えをお立てあそばしたことと存じます。また皇后は常に農業をご覧になりまして、耕作の男女にものを賜うを楽しみとせられ、帝崩御の後、大嚌会を営まるるにあたり、皇后自ら米銭財物を貧困者に施さるること、三万余人に及んだと記載してあります。皇后崩御の時遺命せられ、山陵を作らせられ、嵯峨山に火葬とせられ、すべての遺財を挙げてことごとく貧病者に恵むべしと遺命したもうたと申します。以上申し上げました方々は、奈良朝より平安朝に至る女性の中心勢力たる御方でありますが、これら中心勢力の感化と指導とを受けてこれらの社会事業に従事された女性ははなはだ多数でありまして、光明皇后の御盛時には尼僧三万人と言われていますから、この一言をもってしてもそのさかんなことが想像出来るのであります。当時社会事業を致しますには、尼僧となることが最も便利の位地であったことは申すまでもありません。これにおいて私の最も感激しますのは、その当時の女性が社会事業の上において、いかに真面目であったかということであります。仏教の及ぼす戒律等の関係もありますが、当時の女性は一身の位地を簡単ならしむるために、家庭の係累を絶ち、名利性慾を一抛して尼僧となって慈悲善行の社会的奉仕をなすという、はなはだ真面目に驚かざるを得ぬのであります。我国古代の女性がかくのごとき真面目をもって社会の上に大なる活躍をしていたということは、我国女性の歴史上の華でありまして、又はなはだ誇るべ横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる28


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