001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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たことは、いかに有難き限りではありませんか。光明皇后崩御の後、一時女性の中心となったのは和気広虫であります。広虫はかの有名な和気清磨の姉でありまして、孝謙、光仁の両朝に御信任を受け、常に宮廷に社会に大なる誠忠を尽くした方であります。かつて飢饉疫病の甚だしき時にあたりまして、民間に子を育つる能わず、棄児をなす者の甚だ多きを見て憐みに堪えず、右京、左京の棄児を収容して八十三児を得、ことごとく自分の養子となし、これを養育しました。朝廷はこれを賞して姓を葛木の首おびとと賜りました。また備前の国において和田一百町を挙げて、永世貧病者の賑田とされました。また恵美押勝の乱後連座して死刑に処せられた者数百人でありましたが、広虫は帝を諫め奉って皆な死刑を免ずることを得ました。かくの如く常に内外の治績に献替するところが少なくなかったので、その没後特に正三位を追贈せられました。その後平安朝の始めにあたりまして、淳和皇后初めは正子内親王と申す方でありました。皇后は光明皇后にも劣り給わぬ御方で、種々の社会事業に御尽瘁あそばされまして、主として東西両京の孤児棄児を御収容あそばしまして、多くの乳母を御抱えになり、盛んにこれらを御養育になりました。皇后宮封戸の五分の二を割いてこれら社会事業の費用に充てられました。また御座所でありました嵯峨の御所を御開放になり寺となされまして大覚寺と名づけ給い、その傍に済治院を建てられまして、尼僧の病者を救療せられました。今なお嵯峨嵐山の後方にある大覚寺なる荘厳な寺院は人皆な知る所であります。また淳和院をもって道場とせられまして、多数の尼僧を集めて住居せしめ、謹法の余、安心して、各方面の慈善事業に従事するを得せしめられました。これは皇后の新しき御事業でありまして、27横浜連合婦人会館落成式式辞原富太郎氏


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