001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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にまで継続せられまして、京都粟田に施薬院の跡と呼ぶ所があります。第二に悲田院であります。今の孤児院と養老院と合わせたようなものでありまして、奈良の右京左京の両所に置かれ、両京の孤児貧病者を見当たり次第この院に御収容になりまして御養育あそばされました。第三は義風呂でありまして、今の公設浴場であります。これは現在法華寺の後方にその跡があります。皇后は千人の垢を自ら洗い取るという御心願いをたてられまして、自ら宮女、尼僧たちを御引連れあそばしまして、御自身に御手を御下しになりました。九百九十九人目に当たった癩病患者の膿を御口をもって御吸いになったと言い伝えております。真偽は存じませぬが、ともかくも御自身に御手を下されまして、これらの事業を奨励あそばしたことは疑いのないところであります。第四には法華寺の御建立であります。これは今日の婦人会館と同様のものであります。この寺は女人のために御建てになりまして、男子禁制の寺であります。全国より多くの尼僧をこの寺にお集めになりまして、仏法聴聞の余はこの寺の尼さんに社会的事業、社会奉仕につきまして御指導と鼓舞をなされました。すなわちこの寺より幾多の新しき社会事業が生まれ出たのであります。取りも直さず当時の雄大なる中央婦人会館であります。これは今なお奈良の右京に法華寺なる古き尼寺を残しているのであります。皇后はかくのごとく身をもって率先、天下の女性を鼓舞して、かかる各種の事業を御創立あそばしました。孤児院、救療院、公設浴場、婦人会館等、今日皆様が御尽瘁あそばさるるところの事業は既に千年の昔に皇后が御尽瘁の御心の発露によってその範を垂れられ横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる26


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