001【表紙~本冊】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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奈良時代の婦人の社会における位地と活動とがいかに向上しておったかということは、当時唐制模倣の時代であったにかかわらず、歴代女帝の多くいませしこと、また万葉の歌集等においてもその意気の剛健貞烈なる社会表面の事件にいかに関係を持っておったかということはこれを読んで想像するに難くはありません。ことに文学の方面において、宗教の方面において、常に時の名流碩学と相拮抗して、いささかも遜色のなかったのであります。鎌倉以後武門の世となるに及んで、弱者の絶対服従なる主義よりして、女性の位地は一変して社会の裏面に埋没し去られたのであります。これは実に遺憾限りなきことでありますが、その王朝女性の活動の盛時において、その代表的中心勢力は申すまでもなく、ご承知の光明皇后であります。皇后は生まれながら慈悲仁愛そのものの化身と申すべき御方でありまして、御姿より常に光明を放っていらせられるというので、光明皇后と申し上げました。その頃百済より有名なる仏師が日本に生きた観音がおありになると言って、その御姿を拝みに来まして光明皇后を拝するに及んで、これが聞き及んだ生観音であると言って、その御姿を彫んだのが、今の法華寺の本尊として有名な十一面観音の御尊像であると言い伝えております。現在の本尊はそれとは実際は相違しておりますが、ともかくもそのくらいの御仁愛をお持ちになっていた御方でありまして、一生涯女性の中心勢力として種々なる社会事業を自ら御創めになりました。第一に施薬院、すなわち今の施療病院であります。これは皇后官に施薬院の職制を置かれまして、全国より薬草を買入れ、貧困の病者に施療せられました。これはその後平安朝25横浜連合婦人会館落成式式辞原富太郎氏


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