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自分の仮説が検証された時が最高の喜び。 難治がん治療薬、診断薬の研究・開発に挑む
自分の仮説が検証された時が最高の喜び
難治がん治療薬、診断薬の研究・開発に挑む
東京工業大学 生命理工学院生命理工学系・教授 ライフエンジニアリングコース 近藤 科江さんKondoh Shinae
- 取得資格 特技
- 修士号 博士号
- わたしの強み
- どんな仕事も全力で行う ポジティブ思考
- このしごとに必要な力は?
- コミュニケーション能力・発信力・状況把握力
- 家族
- 夫 娘 息子
- 東京工業大学HP
- http://www.titech.ac.jp/
- 東京工業大学生命理工学研究科近藤研究室HP
- http://www.kondohlab.bio.titech.ac.jp/
女性研究者受難の時代
製薬会社で新薬を開発して、地球の裏側に住む人々も助けられたら、と思って、大学は薬学部に進学しました。でも、大学に入って、厳しい現実を突きつけられました。女性はなかなか企業の研究・開発部門には行けないし、薬局でハサミが使えて、数が数えられたら務まるなんて言われて。
大学3年のころ、研究を熱く語る助教授の研究室に出入りするようになって、研究者を志すようになりました。そのころ、日本には女性が研究できるところはあまりなくて、無謀にも、卒業後、アメリカへ留学することに決めました。ロータリー財団が日米親善のために実施していた制度を使っての留学で、期限は1年、ニューヨーク州の医科大学へ入学しました。
アメリカでの留学生活は、正直大変でしたね。日本人が一人もいないところ、というのが留学の条件だったので、相談したり頼ったりできる人がだれもいない。大学ではESSに入っていたので英語でのコミュニケーションは大丈夫だろうと思ったのですが、全然ダメ。講義は一番前に座って、テープレコーダーで録音して書き起こして、必死に内容を理解していました。
1年だった留学期間を、ロータリー財団に頼み込んで、なんとか資金をやりくりして延長して、アメリカで修士号を取得して日本に帰国。それから、大阪大学の博士後期課程に進学し、博士号を取得しました。
当時は女性が研究者になるのはたいへんな時代で、周囲も両親も「女性が博士号持っても意味ないよ」とか「嫁の貰い手がなくなる」と否定的。製薬会社の就職試験を受けたら、「短大卒でも、4大卒でも、学位をもっていても、女性の扱いは一緒」と言われました。「だったら結構です」と断ったら、あとから「賞与を上げるから入社してくれ」と言われましたけど、そんなところで研究を続ける気はなく。就職先がないまま、阪大で研究生をしたり、日本学術振興会特別研究員などに採用してもらったりしながら、10年間博士研究員(ポストドクター)を続けました。
子育てをしながら研究を続け、大学保育園の礎をつくる
第一子を出産したのは、大学院を卒業してすぐの頃です。育休や産休はなかったので、生まれる直前まで研究を続けていました。研究者というのは、一度辞めてしまうと経歴に空白期間ができて、次のしごとに就くのが難しくなってしまうんです。
復帰後、子どもは阪大の共同保育園に預けていました。大学に保育園があるのは、3時間おきに授乳に行けたりと、大変ありがたかったです。でも、共同保育園の運営は、保護者がしなければならないので、とても大変。急に保母さんが止めたり、利用者も減ったりして、閉園の危機に陥ったこともありました。身重で保育士さんを求めてビラ配りに行ったり、資金稼ぎのバザーをしたり保育園の立て直しに奔走しました。その時、閉園の危機を免れた共同保育園が今や大阪大学が運営し、80人を収容する立派な保育園になっています。
私は保育園で育てられたような気がするんです。連絡帳の書き方から、どういう刺激をいつ与えないといけないとか、全て保育士さんに教わりました。研究しかやっていない人間にはそういうのがありがたかったですね。
保育園時代は、とにかく研究を託児時間内に終わらせることに一生懸命。研究者って昼夜問わず研究しているんです。だけど私は子どもを保育園に迎えに行かなくてはいけない。到底終わる研究のスケジュールではないので、時間が惜しくて、お昼も食べずに一心不乱にやっていました。
これからは、子育ては、女性だけの仕事ではないということを受け入れて、みんなで役割のシェアが進めばいいと思います。大学は、留学生や研究生などいろいろな立場の人が集まるので、もっと大学運営の保育園が増えてほしいですね。
好きな研究を続けたら、ポジションは後からついてきた
1999年に、41歳で京都大学大学院医学研究科の助手になって、ポスドク生活は終わりましたが、私は教授になろうとか、社会的地位や名誉を得たいとか思ったことがありません。とにかく研究を続けたい、研究が好きという一心でここまで来ました。逆に、そういうものを目指していたら辛かったと思います。まったく職がない時もあって、わざわざ大学に研究費を払って研究生として研究を続けていました。研究を進めるために、あえて不安定なポストに就いたこともあり、常勤・任期無しの就職先を得たのは東工大に就職した2010年です。だから、したいこと・やりたいことを続けてきて、その結果として今のポジションがあると思っています。
それから私の強みは、どんなしごとも全力でやるということです。小さなことでも全力投球することは、どんな人にとっても大切なこと。「こんなしごとしかさせてもらえないのか」と思っても、くやしければくやしいほど全力でやって、10倍くらいにして返します。そこで腐って適当にやってしまったら、次のしごとにつながりませんからね。
今、私が東京工業大学で進めているのは、治りにくい悪性度が高いガンの診断薬や治療薬の研究です。治りにくく転移するがん細胞というのは、特徴があって、低酸素の環境にいるんです。今までは低酸素の環境下のがん細胞って、注目されていなかったんですね。低酸素の、栄養のないところにいるがん細胞なんて、ほっといても死んじゃうよって。でも、過酷な環境にいたがん細胞は強い、酸素や栄養が少ない環境でも賢く生き延びる。虐げられて強くなって、転移する力まで備えてしまう。そんながん細胞をやっつけたり、目印をつけたりする研究をしています。
女性研究者の道を開く
2008年には、第13回日本女性科学者の会奨励賞(「低酸素特異的有融合タンパク質を用いた治療薬・診断薬の開発」)をいただきました。「女性だから」という理由で門戸閉ざされるのはおかしい、今後、女性にもどんどん開かれていくべきです。そのために、私たちは、働きやすいような制度やトップリーダーになる人を育てる仕組みを作りたいと思っています。
今、私のような立場にいる女性は本当に少なくて、大学内でも研究室を運営している女性教授は私を含め三人くらい。ロールモデルになる人がいなくて、不安な時もありますが、次に続く人のために、ここで道を作っておかなくてはなりません。