003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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てられ、教会名を指路教会とした。指路教会において初めて女性が長老に選ばれたのは一九二一年のことで、佐藤園と大橋しげが選ばれた。関東大震災では、教会堂が倒壊し、二六年に再建。婦人会がいつ創立されたか不明だが、大震災前、婦人会が横浜の大岡町に会堂を建てるため建築費二千円を確保したが震災で実現しなかったという記録がある。このように婦人会は新たな教会を創りだすほどに活発な動きをしており、震災直後にバラックの会堂から活動を始めている。日本基督指路教会(指路日本基督教会)と称していたが、一九四一年、日本基督教団成立後、日本基督教団横浜指路教会というようになった。横浜連合婦人会の評議員は、山下せう、國井あや、城戸順。神奈川バプテスト教会婦人会一八七三年、アメリカ北部バプテスト外国伝道会社は、ジョナサン・ゴーブルとエリザ夫妻とネーザン・ブラウンとシャーロット夫妻を日本に伝道師として派遣した。ブラウンは教会を組織するため、ただちに横浜居留地二〇三番で集会を開き、この年に横浜第一浸礼教会(横浜第一バプテスト教会)を設立した。また、聖書翻訳委員社中を結成し、一八七九年には日本語最初の新訳聖書全訳を完成させる。一八八四年にはアメリカ・バプテスト・ミッションの会議が開催され、伝道者養成の目的で、横浜バプテスト神学校が山手六四番に設立され、A・A・ベネットが校長として貢献した。関東学院の源流の一つである。イギリス・バプテスト伝道会社とアメリカ南部バプテスト教会も伝道を開始し、横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる238


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