003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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イギリスから横浜に来て絹織物を扱うコーンズ商会を設立した。横浜山手で生まれたが、母方の反対で同居できず、父は教育費を払う約束でイギリスに帰国して結婚し、コーンズ商会はその息子たちが引き継いだ。七九年から東京でアーネスト・サトウの妻武田兼のもとで日本語や習慣、礼儀作法を学んだ。もっと勉強がしたいと横浜に帰り、J・クロスビーにかわいがられた思い出のある共立女学校に入学した。八七年から、英和女学校(のちの捜真女学校)で教師と会計係を引き受けた。九〇年にクララ・カンヴァースが二代目校長に就任。コーンズも日本名に改名し、着るものも和服に変え、日本人になる決心をした。山田は母の再婚相手の姓である。以後、カンヴァースと二人で学校の発展に尽くした。一九〇六年から一年間は、米国マサチューセッツ州のクインシーメンションスクールに留学している。二六年にカンヴァースに続いて、山田も引退し、神奈川区広台(現、旭ヶ丘)の家で共同生活を続け、卒業生や知人の訪問を楽しみにし、部屋も用意した。引退後は社会活動に力を入れ、神奈川バプテスト教会の婦人会の指導、横浜基督教女子青年会の幹部委員、横浜基督教婦人矯風会の副支部長などを引き受けた。山本けい(やまもと・けい)一八八〇(明治一三)~不詳評議員。千葉県安房郡の生まれ。一八九九年、千葉県女子高等師範学校に入学し理科の課程を修め、卒業後、女子師範学校と高等女学校教員免許を得た。三重県立高等女学校、東京の三輪田高等女学校を経て、横浜実科高等女学校(現、神奈川学園)の教師になったのは一九一四年。南太横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる218


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