「フォーラム通信」2019年春号

「横浜から男女共同参画社会の実現を考える」。公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会が発行する広報誌です。2019年春号の特集は、「お金の、悩み」。


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小野美由紀の言葉にしてみたら、隣で美女が上海蟹をほじくりながら「なんかあ、もう仕事も成功しちゃったし、残りあと結婚ぐらいしか、人生ですることがないんですよね」と言う。我々の頭上にはずっしりと重たくふさぐシャンデリア、中華卓の向こうには女性起業家とマーケターがいて互いのビジネスの話をしている。「小野さんは結婚されてますか?」と聞かれて「してないです」と答えると、「〝まだ〟されてないんですね!」と言い直され、ああ、さすがのビジネス的気遣い、できる女はこう返すのかと感心する。この種の気遣いを最近同世代女性から受ける事が多くなった。しかし残念ながら「寿司好きですか?」「いえ好きじゃないです」「〝まだ〟好きじゃないんですね!」と言われてる気分にしかならないので、有難いのか有難くない結婚制度、必要ですかのかわからない。訂正しようかとも思ったが、そっちの方がかえって気にしているみたいで嫌だなあ、と結局沈黙。是正できる人間になりたい。結婚したい、と思ったことがない。本当に、誇張もなく、一度も、ない。母がシングルマザーだったことも理由の一つだろうか、生活の基本単位が「一人」であることに慣れすぎていて、そうじゃない状態を想像することができない。くだんの美女は憂いた顔で「イケメンだったら誰でもいいんですけどねえ。できないんすよねえ。なんでかなあ」と言って蟹を開いた。蟹と言う生き物のデザインは、驚くほど合理的かつ機能的にできていてびっくりする。結婚より甲殻類の構造の方がよほど興味をそそられONOMIYUKIる。物事は結局、なんやかんやの力学が働いていて、合理的にできているのだから、もしこんなに美しい才媛が結婚「できない」とするなら、それは突き詰めればどちらかというと「本当は、それほどしたくない」の表皮ではないだろうか。そう勘ぐるも人の気持ちなんて自分と同じ以上に分かりゃせんのでやっぱり、沈黙。「したくない」のか「できない」のか、社会常識とねるねるねるねされた自分の「本当の」気持ちは一体何色なのか、判別できないくらい私たちは大人になってしまった。先日、株式会社グローバル・リンク・マネジメントが未婚の男女を対象に「結婚の意思の有無」に関するアンケートを行ったところ、「現時点で結婚は考えて0.3%、「今後も一切考えていない」は26.7%となり全体の約4割いない」が17.0%)が結婚の意向がないという(3結果になったそうだ。「ない」組の私からしても、この結果は衝0%って、マジョリティと撃的だった。4までは言わないまでも、マイナー・マジョリティくらいの比率ではある。そう思うと心強いが、であるならやはり、なぜ「みな結婚するのが当たり前」という社会通念がこの国では今だ強固なのだろうか。「人間、最後はみんな1人なのよ。それを分かっているかどうかが、〝楽しく〟生きてく上では重要なの」去年の夏、パートナーのお母上にお会いした時に言われた事だ。若い時に散々苦労してきた方だけあってその言葉には重みを感じたが、「分かっているかどうかが」と「生きてく上では」の間に「楽しく」が挟まっていることが、私には意外だった。先日、友達が2回目の離婚をした。1度目の時、彼女は「うん、私、最初からこの人とは離婚すると思ってたから」と小野美由紀(作家)1985年生まれ。慶応義塾大学フランス文学専攻卒。恋愛や対人関係、家族についてのコラムが人気。著書に原発事故を題材にした絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、『傷口から人生。』(幻冬舎文庫)、『人生に疲れたらスペイン巡礼』(光文社新書)等がある。小野美由紀さん初の長編小説!『メゾン刻の湯』(2018/ポプラ社)”正しく”なくても”ふつう”じゃなくても、懸命に僕らは生きていく。銭湯×シェアハウスを舞台に描く、希望の青春群像劇。フォーラム通信2019春号10あっけらかんと言い放った。なぜ分かっていて結婚したの?と聞くと、だって子供欲しかったんだもの、と、傍にいる宝石のようにまばゆい2人の男の子たちを抱き寄せて微笑んだ。では、2回目の結婚はなんのためか。「この人となら愛を育んでいけると思ってたのに」と彼女は1度目では見られなかった落ち込みを見せていた。1度目の結婚は生殖のため。2度目の結婚は自身の愛のため。前者より後者の方が、失敗に終わった衝撃は大きい。それでもいま、彼女は3度目の正直を目指して日々マッチングアプリに勤しんでいる。「どうしても〝結婚〟じゃなきゃいけないの?」と聞くと「だって死ぬまで一人の人と愛し合うって憧れじゃない」と、1度目の離婚の時のようなあっけらかんとした声で答えが返って来た。〝己の幸せを目指して邁進している〟ことに1ミリの疑いを持たぬ者の表情は清々しい。彼女にとって「結婚」とは、山に登るときのピッケルのように、幸せに向かって自分をドライブするための装置なのだろう。幸せになりたい̶̶私たちのあらゆる行為の原点であり、それ以上微分できない欲望である。それを求めて、私たちは日々、笑ったり、泣いたり、何かに抗ったり、届きそうにないものに憧れたり、ドタバタと忙しく生を全うしている。制度とは人を幸せにするための道具であり、そしてその道具の使い方は人それぞれである。道具を使いこなすためにはまず、使い手である自分への理解が必要であり、自分を理解するというのは突き詰めれば「自分にとって何が幸せか」を知ることである。それを以って初めて、私たちは社会常識という名のヴェールの向こうにある、一人一人にとって色の異なる、ほの明るい幸せの光源にようやく手を伸ばすことができるのである。


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