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ONOMIYUKI小野美由紀の言葉にしてみたら、男女9人の貧乏シェアハウスに住んでいた頃、「どうせ取られるような高価なものなど誰も持ってやしない」という開き直りに全員が同意し我が家の鍵は24時間空きっぱなしだった。深夜3時、予期せぬ来訪者が玄関のドアをガチャリと開ける。「おとうさあぁん、おとうさぁん」切なげなソプラノで配偶者を呼ぶのは上階のマンションのオーナー家族のおばあちゃんだ。「おとうさあん、ねえ、どこに行っちゃったのう」その〝お父さん〟の方は昼どきになると「おい、飯、まだか」と言いながら、玄関ドアをバァンと開けてリビングに乱入する。認知症夫婦の昼夜交代制の総攻撃、新しい入居者はビビり上がるがその「生産性」からこぼれ落ちるものうち慣れる。真夜中に叩き起こされる分、おばあさんの方がタチが悪い。「おばあちゃん、ここに来てもおじいちゃんのいる階にはいけないよ」と声をかけるとキョトンとして「あらそう、でもねえおじいさんは1階のお店にいるんですよ」と昔、夫婦が営んでいたマンション1階の靴屋のことを話し出す。廊下でへたり込むおばあちゃんをその時起きている住人たちで協力して背負い、上の階まで運ぶのがルーティンとなった。家の中まで送り届けた後は「全く、驚いちゃうよねえ」「起きていてよかったね」と言い合い、それぞれの部屋に戻る。みんな、彼らが来ることを厭わず、むしろ面白がっていた。そのころ私は仕事を辞めたばかりで、ひたすらデビュー作の原稿を書く日々だった。執筆中の小説家なんて、無職となんら変わりない。自らが何かを生産している手応えも、社会経済に貢献している実感も1ミリもなく、宙ぶらりんの日々。未来の保証は何も無く、夜に布団に入ると天井から不安が黒い津波のように押し寄せてきて全く寝付けなかった。ある日の夜更け、頭の中で将来への不安が小爆発を起こし、思わず寝間着のままでマンションのエントランスに飛び出した。ドアを開けた途端、くだんのおばあちゃんと鉢合わせしてぎょっとした。化粧を塗り、おめかしをした彼女は私を見るとぱかりと丸い目を開けて言う。「あのね、おかしいのよ、平日なのにどっこのお店もやってないの、みんなどうしたのかしら」膝の力が抜けた。「おばあちゃん、3時だからだよ、お家に帰ろう」おばあちゃんを連れ、上階の部屋の前まで行く。玄関ドアの隙間からは柔らかなオレンジ色の光が漏れていて、彼女が今夜、人の温度のある場所で眠れることに私はホッとした。いつのまにか不安は消えていた。次の日の朝、1階で上階のマンションオーナー(おばあちゃんの息子)に会った。目の下には深いクマ、介護生活で疲弊しているのだろう。言うべきかどうか迷ったが、一応、と思い、昨夜の出来事を告げた。途端に顔色が変わり、平謝りに謝られた。慌てて「あのう、私たち、全然気にしてないんです。おばあちゃんが来ても全然迷惑じゃないんで、戸締りとか、気をつける必要ないです」と告げた。このオーナーは私たちシェアハウスの住人のことをあまり良く思っていない節があったが、その日から態度が軟化した。そのうち季節は変わり、おばあちゃんは来なくなった。私も、住人たちも忙しくなり、そういえばおばあちゃん、来ないねえ、なんてことすら会話にのぼらず、時間はすぎた。ある朝、1階の靴屋のシャッターに張り紙を見つけた。「×月○日、母△△が逝去したことをここにお知らせします。△△は大正1を開業しーー」2年にこの地に生まれ、靴店おばあちゃんの、長い長い人生の歴史が、ワープロ打ちのようなガタガタの文字で、数行に凝縮されて書かれてあった。なぜだか涙が出た。ここに見知らぬ他人の命があったということが、どんなに小さな、私にとって取るに足らない生であっても、ここに存在したということが。少し前に、自民党の杉田水脈議員による「LGBTは生産性がないから支援する必要がない」という趣旨のコラムが大論争を巻き起こした。それを見た時、私はなぜだかこの出来事を思い出した。生産性がそんなに大事か。産むことがそんなに尊いか。世の中は生産と程遠い、取るに足らない凡百の他人の命でできていて、それらはふとした時、私たちに他人の生の感触を思い出させてくれはしまいか。自らを生産性で測る人間も、他人を生産性によって糾弾する人間も同時に可哀想だ。いい加減私たちは自らを機械のように見るのをやめるべきではないか。機械と比べるのをやめるべきではないか。そんなものはどうでもいいと抱きしめ合うことの方が先ではないか。ただそこにある、ただ、生きているということへの驚き、つい見過ごされてしまうような当たり前の命の価値を本当に見過ごしてしまうような国であれば、滅んだとしてもなんら驚きではないし、むしろ取るに足らない小国の末路として、何万何千年の地球史の中では見過ごされるだろう。我々はどこに行こうとしているのか。小野美由紀(作家)1985年生まれ。慶応義塾大学フランス文学専攻卒。恋愛や対人関係、家族についてのコラムが人気。著書に原発事故を題材にした絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、『傷口から人生。』(幻冬舎文庫)、『人生に疲れたらスペイン巡礼』(光文社新書)等がある。小野美由紀さん初の長編小説!『メゾン刻の湯』(2018年/ポプラ社)”正しく”なくても”ふつう”じゃなくても、懸命に僕らは生きていく。銭湯×シェアハウスを舞台に描く、希望の青春群像劇。フォーラム通信2018秋号10